前回の話で、神様にも感謝をした「人工呼吸器」がはずれたという話のポイントをお話したい
脳死と植物状態の違いである
脳死とは自力で呼吸できず、人工呼吸が生命線となり、今後症状の改善が見込めない状態。
植物状態とはまず「自力で呼吸」していて、今後症状の改善がみこめる(余地のある)状態
わかりやすくはこのような違いとなる
私Nも、「父が最後にがんばったな」とおもうのは、酸素補助を受けながらとはいえ、「自力呼吸」をしてくれたのは私たち家族にとっては大きな(理由は前の⑱参照)運命の分岐点だった。
植物状態になると、鼻からの管による「流動食」(経管栄養)により、1日3回食事をとる
のどから胃に行かない場合は家族の許可があれば「胃ろう」(胃に穴をあけて)の穴に直接栄養を流し込む方法がとられる
しかし、そこまでして「はたして本人は生きたいと望むだろうか?」
という疑問が生まれる
父は「歩けなくなってまで手術したかったか?」というとNO!とまちがいなく答えただろう
多少の麻痺、言語障害などは覚悟していたとしても、このような状態での人生は間違いなく「希望していない」と思う
しかし、この死ぬことも出来ず、生きることもできていない状態は、この日本という国では誰も、どうしようもない事態になる
「安楽死」は認められていないからだ
海外、特に西洋のスイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、スペイン、南米ではコロンビア、北米カナダ、アメリカの1部の州など10か国以上が「積極的安楽死」を認めている
スイスなどはかなり古くから合法とされてきた
日本では、かつて家族の希望で「生命維持装置」(つまり人工呼吸器)を外して、故人を看取ったら、のちにその装置をとめれば、生命が断絶すると知って外した場合は、罪となり、警察が入ったという事実も残されている
先日も重度障害者からの希望で金銭を受け取って安楽死の注射をした医師免許を持つ者の逮捕も記憶に新しい。
「死の権利」はこの国にないのだ。
そして、この状態を家族として苦悩し、体験した母は、公証役場で「尊厳死宣言」の公正証書を作成したほどだ(13000円程だった)
これは、自分が夫のように、手術に向かう時、医師に渡すためである
そこには「現代の医療では改善の見込みのない病状の場合には、延命措置を希望しないということが証明されている」
本人が治らないなら生命維持を希望しないという 宣言書である
これを、公正証書で組むことで「法的効果はないが、十分に尊重される」と公証人の方も言っていました
現代ではこの「尊厳死宣言」の公正証書作成しか、この日本では、このような状態になったときの本人の意思表示のやり方はないのです
私Nの家族の苦労、考えて行動した苦悩が、このブログをつうじて、お役立ていただければ幸いと存じます
日本に尊厳死協会という団体も存在しますが、命はまず、自らのものですから、個人での意思をしっかり残し、証明する方法が大切だと思います
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