転院先の「コロナ発生騒ぎ」から2週間経っても音沙汰なし、、、家族は「ダメか、、」という気持ちの中、入院している病院からまたもネガティブニュースが、
「転院先の病院から転院受け入れの条件を再検討する旨」の連絡があって、つまり父の審査もコロナ後、一からやり直すということだった。
これを聞いた私N家族はさすがに「いや落ちた、断りだ」と解釈し落胆した
私Nは、「自分しか母や家計を救えない、母や兄に細かいことはもはや期待できない」と思い、また一から範囲を他県に拡大して新たな療養型病床の「空き病床あり」という病院をネットと電話で探しはじめた。
すべては「資産を守る」ことにつながる
施設でも、病院でも「医療保険、介護保険の適用外の部分で利益商売をしている」というのがポイントなのだ
どこが安い、高いは「保険外の部分」の料金の比較と覚えておけばよい
保険は規定があり、暴利はしずらくなっている。
これはネットと電話だけでも十分に確認可能で、努力すればするほど可能性はあるという分野なのだと知った。「その値段が月2万安ければ年間24万も圧縮できる」
私Nは芸能プロデューサー時代、「誰もしらない無名の会社で、誰も知らない新人をタレントに育てる」ということをやり抜いた。その経験から奇跡的な体験も沢山してきた。
そして追い込まれた時(もう、ここまでだろう、限界かな、、、と新たな仕事が取れず、次の突破口が見つからない、今ある仕事が終了していく、状態が継続)
が何十回もあり、それを打破してきたのは1つの言葉を自分は持っていた
「ありとあらゆる手をつくせ!絶体絶命からホームランを狙う!」
他人は信じない、己のこの言葉しか私Nは信じない
今でもだから、独身を貫いてきた。他人を信じていないからだ
そんな努力を神様は見ていてくれたのか1週間後、手術した病院から電話があり、なんと父の受け入れ「転院」が許可されたのだ
電話があった日から1週間後という急なスケジュールで私は10時半まで、その後は体が悪いが、、何とか母が午後までの立ち合いという強行軍でいくこととなった。父の死に場所を確保してやりたい。
当日は転院先の病院へは車で1時間半かかるため、10時半の転院時間の2時間前8時に母を乗せて出発した、、
手術病院も転院先も、このころはまさに「コロナの蔓延時期」で一切の病室での面会はもとより、その部屋のあるフロアでもミーテイングスペースまでしか、外の人間ははいれない状況だった
私N家族も、入院するとき、兄は手術前、以来、父の姿を直接見ていない
転院するときは当然表玄関から手術病院の救急車で搬送されてくることになり、ストレッチャーで父が出されたその一瞬だけ、父とあうことができるのではと考えて、そのタイミングを逃さないために、早く出る必要があった
もしすぐ環境が変われば万が一ということもなきにしもあらず、その機会はとても私Nにとっては貴重な時間になることを理解していた、、
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