<健康と病気>療養型病床の父を兄と見舞うが、、「もう、、長くはなさそうだな、、」兄弟、血族のありがたさを知る、「生き方は選べる、でも死に方は選べない!」これが人生の現実。

健康と病気
2015/10/13 12:26

このブログをスタートさせるきっかけにもなった「中性脂肪高値を放置し続けて植物人間になってしまった我が愛する父の話」。「大病も手術だけが選択肢ではない!」を伝えたい為に残すために独自ドメイン取得してまではじめたのがこのブログの起源です。

大動脈置換手術のあと、多発性脳梗塞を起こし、、療養型病床で2年半の時間が経過した、、

7月末の父はまだ昔の面影をのこしていたが、先日兄と父を見舞うが、、その痩せ方が異常なほどで私たち兄弟はショックを受けた。

「痩せたな、、、」とふたりはほほがこけて、見たことないほどやせ細った父をみて声にだした

そして「来年には、、、いよいよだな」と2人は当然にしてくるべき父の旅立ちを悟った。

それでも父の寝顔がすこやかではあり、ヒゲや髪の毛などもきれいにしてくれていて、、この病院の手厚い看護に感謝がこみ上げた

「よかったね、、父さんこの病院で、、」

年を開けたら手術から3年になる。あれからまだ3年か、、、私は父のあの(くわしくは中性脂肪高値~を参照)悲劇の現実が起きてから

病気の母とこの実家の維持にありとあらゆる策をつかい、、兄の協力もあり、なんとか実家を売らず母の希望の生活をさせるべく努めてきた。

わたしも、ストレスから右目の網膜の部分剝離や胆石痛、耳鳴りや胃炎などを発症し、、この3年間心休まる日はほとんどない。こんなことになった行き場のない苛立ちと無残な姿の悲しみは想像以上に私を苦しめた。

酒は一滴もくちにしない。

いつ父の容態がかわり車を1時間半とばすかわからないからだ。

血族の力というのか、、守るものを死守する本能が強くでた。

やはり、兄がいたのも心の支えになった

私たち兄弟は独身で、家族事を分かち合う人間もこの世には母と兄弟だけ。

帰りの車で私たち兄弟がおもったのは

「手術をもししなければ、、」の話だ。いつもそれぞれがずっと考えているのだ。

しなければ、あとどのぐらい動脈がさけるまで生きれたのか

意識がはっきりとしたまま、、痛みに耐えながら通院か?はたまた入院生活になったのか?

死をただ待ってもよかったのかもしれない、、、という説は

我が兄弟のいつも解決しない永遠の問いではある

「自然の摂理に無理にさからわず死を待つ勇気」

父はそれを選択できなかった

「俺は動脈以外は健康だから、動脈さえ直せば90まで生きれる、だから直(手術)したい」

というのが口癖だった

自分の血管状況は頭にいれなかった

医師もどんな麻痺がのこるかは「やってみなければわからない」、ネガティブなことはクライアントには話さないのはあまりにもよくない。

のぞまない体になるのは微塵もかんがえていなかった

家族も怖がらせるからできるだけネガティブなことを口にしないようにするしかなかった

いろんな3年間がもうすぐ

決着がつく

とおもうと

父の療養型病院さがしからはじまった、生活維持の金銭の計算やすべての戦略がかかれた私の「戦(いくさ)ノート」とかかれたノートみて涙がこみあげるのだ、、あのときは「なんでこんなことに、、」からはじまった戦いだ。何日も寝ずに病院探し、コロナ過、そして気管切開をした父を簡単にはうけいれてくれない中、いまの病院が手をあげてくれた時、いろいろ思い出す、、

もうすぐ、わたしの50代での戦いのひとつは決着がつく

本当の意味で自分を取り戻せる日は近い

父がたびだったら、まずビールをのみ、海外旅行に行こうときめている

自分になにかご褒美でも買おうかな、、、

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管理人

東京都出身。元芸能プロモーター歴20年。芸能屋時代ロケで47都道府県を旅しながら、うまい出し醤油やめんつゆ、調味料を日本全国から買い集め、自作ラーメンと餃子、揚げ物の研究を8年間行った。2015年に引退後は料理、FXなど独自の研究活動や勉強中心の生活をおくる。

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